古本屋という職業は膨大な量の本に囲まれた生活をしている。読書好きにはたまらない環境と思われそうだが、職業となるとそういうわけにもいかない。学生時代には1週間に2冊程度の本を読んでいたが、今は月に1,2冊というところだろう。勿論、色々な本を目にするので、この仕事を始めたばかりの頃は、自分専用の本棚に興味を持った本を取り分けておいた。ところが3ヶ月もしないうちに、本棚に一杯の本がたまっていく。本が増えていくペースを考えると、1日に1冊は読んでいかないと追いつかないことにすぐに気づいた。それ以来、本を取り分ける事を止め。今はよほどの事がなければ全ての本を販売している。
私がいわゆる読書というものを始めたのは高校3年生の夏からだ。それまで、読書をしていなかったかといえば、そういうわけではない。ルパンやホームズ、推理小説など、娯楽や楽しみとしての読書は小学校の時から続いていた。
高校3年の夏休みのある日、私は美大を受験する友達の家に遊びに行った。彼の部屋には、彼が心頭する、ダリの絵や、それを真似て彼が書いたシュールリアリズム的な絵が飾ってあった。ピンクフロイドの音楽とダリの絵に囲まれた狭い部屋の中で、彼は「存在」とか「時間」とか「虚無」について熱く語るのだが、私には何がなんだか分からなかった。日常からひらりと抜け落ちたような彼の言葉の中から、この世には、私の住んでいる世界とは別の次元の世界があるんだなという印象だけがぼんやりとした頭の底に蓄積していった。
その時に彼が読めと薦めてくれた本が「ツァラトゥストラは斯く語りき」というニーチェの本だった。さすがに、初めての読書でニーチェは難解すぎたが、それ以来、私は日常の中に埋没していた生活とは別れを告げて、遅まきながら、大脳皮質にとっての究極の命題である「私」と向かい合う事になった。
私にとって「読書」とは「私」を捜し求める旅のようなものかも知れない。ただ、その果てに今私が感じている事は、「言葉で表現できないものがある」という事だ。もともと言葉というものは、物事の差異を峻別する記号だ。言葉は事物を孤立化し、世界を切り刻んでいく、そして、言葉を操る人々は、孤立化した事物を己の内部のイメージに近づけようと努める。作家がもっとも生き生きしている瞬間だろう。そして、そのプロセスの中で、言葉が作家のイメージをモザイク画のよう再構築していく。
そのモザイク画は、遠目にはほぼ完璧のように見えるが、よく見れば、ピースが1枚抜け落ちている。むしろ、ピースは全て埋まっているのだが、ピースとピースの隙間から世界が少しずつ抜け落ちているといった方が良いかもしれない。勿論、僅かに抜け落ちているものを補うのが読者の「想像力」というものかもしれない。もしかすると、私には単にこの「想像力」というものが足りないだけなのかもしれない。できれば、そうであってもらいたい。
だが、私は、言葉が持つ生来的な宿命を感じている。全体として事物を捕らえるのではなく、全体を峻別し細分化していく事によって成り立つ言葉の本質的な作用が、言葉を「世界そのもの」そして「私」から遠ざけているような気がしてならない。それが、メタファーとしての言葉の限界なのかもしれない。
だとしたら、私達はどのようにして、「世界そのもの」そして「私」を表現できるのだろうか。「世界そのもの」そして「私」は感じるものであって、表現できるものではないのかもしれない。
例えそうではあっても、言葉が「世界そのもの」そして「私」に肉薄しようとする試みの中に私はその美学を感じる。ただ、現代科学がビッグバン以降、現在までの宇宙の形成過程を記述する事はできるが、ビッグバンそのものを記述する事ができないとい点に、何か相通じるものを感じてしまう。
「言葉」というものをけなすような表現になってしまったが、これもまた「言葉」。「思考」もまた「言葉」であるからには、「言葉」を否定する事は自分自身を否定する事に等しい。また、言葉によって成り立つ本を売る古本屋自体を否定する事にもなるだろう。それでは、私が生きていけない。
でも、ひょっとすると「言葉」によって成り立つ「思考」そのものを否定した時、「思考」から成り立つ自分自身を否定した時に「世界そのもの」そして「私」が一つの全体として立ち現れてくるのかもしれない。