シビリアンコントロール

最近ローズと一緒に「おしん」という数十年前の連続テレビドラマを見ている。昨日見た回で日本は終戦を向かえ、長男は戦死、夫は隣組の組長として近所の若者を戦場へ駆り立てた責任をとり自決した。
子どものころ、脱走兵と一緒に一冬暮らした「おしん」は人が人を殺す戦争の不条理さを脱走兵から教えられ、日中戦争が始まった時から終戦までの15年間、心では戦争に反対しながらも、何もできなかった自分を悔いて涙する。
私は戦後の生まれで、太平洋戦争についての史実はほとんど知らない。ここで明確に何かを言う事はできないが、軍部がその目的は何であれ、政治家を飲み込み、国民を戦争に引きづり込んでいく大波をつくり出していった事だけは間違いのないことのように思える。恐慌が更に大波に拍車をかけたのだろう。次第に戦争に疑問を抱き始めた人々も、目の前に迫る大波の前にはなす術も無かったのだろう。コップ1杯の水なら飲み干す事ができたとしても、一旦大波になってしまえば流される以外に何ができただろうか。
我が家は、新聞を取っていないので世情に疎い所があるのだが、ちょっと気になったニュースがある。
最近、防衛庁が防衛省に組織替えをした。それ自体の是非は私には良く分からない。しかし、今回の防衛省事務次官の人事に関しては一抹の不安を感じてしまう。事務次官という名前からは軍人とは程遠いイメージがあるが、良く考えてみると、事務次官というのは軍人の最高職位なんだなという事に思い至る。
中学校の時、公民の時間に憲法の授業を受けた。その時、社会の先生は、2度と軍部主導の戦争が起きないように、国民の付託を受けた国会議員によって主に構成される内閣が文民として軍人をコントロールするんだよ。それをシビリアンコントロールと言うんだよと話してくださった。
今回の人事では、私達国民の最終的な代表者である防衛大臣が軍人の最高権力者である防衛省事務次官をコントロールできず、むしろ軍人の意のままにコントロールされてしまっているように見える。事情は色々あるのだろうが、シビリアンコントロールが目に見える形でないがしろにされている事に「コップ一杯」の不安を感じてしまうのは私の思い過ごしだろうか。
戦争の事が話題になるこの時期だからそう感じるのかもしれない。権力が最終的に軍事力によって担保されるのだとしたら、軍人のトップである事務次官には、たとえ不満があろうとも、甘んじてシビリアンコントロールに従うだけの謙虚さが求められるのではないのだろうか。

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