最近関東地方に行く機会が多くなり、富士山をじっくりと見る時間が増えた。それまでは、新幹線の車窓から眺める程度だった日本一の山が身近に感じられるようになった。
私の住む富山県はその名の通り山に囲まれている。飛騨山脈を形成する山並みは密で急峻で、ひしめくような山並みに慣れている私にとっては、独立峰としての富士山は実に新鮮で伸びやかな広がりに満ちている。正に不二と言うにふさわしい山だ。
遠征仕入れ中に良くスパー銭湯を利用する、いずれも天然温泉をうたい文句にして、ジャグジーのようなさまざまな浴槽、露天風呂をうたい文句にしている。食事や宴会もできるような施設も付属し、都会で温泉気分を味わえる手軽な施設だ。露天風呂も人工的な外壁に囲まれているとはいえ、空を見上げれば星が輝き宇宙の無限に続いている。
今回の遠征仕入れの最終日は山梨県だった。以前ある方のブログで「ほったらかしの湯」という露天風呂があると知り是非行ってみたいと思っていた。「ほったらかしの湯」は日の出の1時間前から入湯できると知り、ご来光を見ながら温泉に浸かる事を夢見ていたわけだ。
カーナビを使うと別な場所に連れて行かれるとホームページに書いてあったが、案の定私のカーナビも別の地点を指していた。そこで近くにある「冨士屋ホテル」を目標に設定し、真っ暗な山道を登り始めた。
眼下には甲府盆地の底に光る夜景が見える。本を目一杯積んだ私のバネットは喘ぐように急峻な道を登っていく、やがて冨士屋ホテルを過ぎ、道が頼りなくなってくるが、まもなく「ほったらかしの湯」に到着。空は漆黒から濃紺に移り変わり朝が近い事を告げている。ここには「あっちの湯」と「こっちの湯」の2つの露天風呂があるのだが、日の出を見るなら「あっちの湯」がよいとの事で「あっちの湯」に向かう。
自販機で600円の入湯券を購入、受付のおやじさんに「おはよう」と挨拶をして、脱衣場に向かう。脱衣場の戸を開けて内風呂に向かうが、この2つはつながっていない。裸の体が外気にさらされ震えが走る。内風呂に飛び込むと大きな窓の外は濃紺から明度の低い青に変わっている。
しばらくして体も温まり、露天風呂に向かった。1段高い所には木枠の10畳程度の露天風呂があり、その脇を10段ほど下がった所に30畳ほどの岩風呂がある。私は岩風呂への岩の階段を降りて10人ほどの先客と共にご来光を待った。正面にはなだらかな山並みが続き、やや右手に富士山の顔がシルエットのように浮かんでいた。
次第に山並みと空の境界線に赤みが差し白とオレンジの縞模様がまとわり付き、次に来る瞬間が近い事を教えてくれている。空はすでに青く、行き遅れた星が一つ名残惜しそうに瞬いている。
私は、今か今かと待ち構えているが、なかなか太陽は昇ってこない。しばらく空に浮かぶ雲を見ながら、空の移り変わりを楽しんでいた。空の明度はさらに上がり澄み切ったブルーがどこまでも続いていた。
山稜は次第に黄金色に包まれ、鋭角の谷間から1条の光が広がった。ご来光だ。見る間に日は昇り、富士山の南の緩やかな斜面がくっきりと照らしだされた。
食い入るように日の出を見つめていた私の網膜は次第に太陽の光に焼かれ、オレンジ色の日輪はいつの間にかグレーに変わり、黒と白の輪郭がその周りを包み始めた。次第に黒と白はグレーの円周を回り始め、互いの尻尾を追いかけるようにその速度を増していった。グレーの円は次第に小さくなり白と黒が太極図の文様を作り出していく。
私はTAO(道)の秘密を垣間見たような気がして、網膜に繋がる神経細胞の奥で繰り広げられる不思議に見入っていた。
我に返ると、若い女性が入湯客にインタビューをしていた。カメラも回り、NHKが1月2日に放映する予定のロケの最中だった。私は、少しぬるめの露天風呂から内風呂に向かい、体を温めてから、着替え、外に出た。明るい光の中で温泉施設は掘っ立て小屋のような概観を呈していた。大き目の山小屋に近いそのたたずまいが周りの景色になじんで、自然は生き生きしているように見えた。
元気で通りの良いさわやかな声が聞こえたので傍らに立つ小さな小屋に行ってみると、朝ごはんを売っていた。ご飯と味噌汁で400円。ささやかな食事だが漬物は食べ放題で、青空にくっきりとその姿を見せている富士山を見ながら白いご飯を頬張った。すがすがしい空気の中で食べる粗食は何物にも代え難いご馳走だった。
お膳を返した後、さわやかな声の店の主人と話をした。冬の初めと終わりは入湯客も少なく、空は透き通りとても綺麗な富士山が見えると言っていた。まさしく今日のことなのだなと思った。そして、雨が降った後の快晴の日は甲府盆地に雲海が広がり幻想的な世界が展開すると言う。
是非、次回はそんな日にめぐり合いたいものだ。
宣伝を全くしない、サービスも特に無い露天風呂だが、私のように1度足を運んだ人が誰かに話さないではいられない温泉なのだろう。土日はかなりの人出があるらしい。平日のこの時期に立ち寄る事ができたのは幸運だったのかもしれない。近くで朝食を食べていた女性が「今まで行った中でこの温泉が1番良いわ。」と言っていたので、思わず私も「その通り」と心の中で応えていた。
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