アユからの電話

妻のところに東京にいる息子から電話がかかってきた。アパートを替わるから連帯保証人の書類に記名捺印して欲しいとの事。息子から妻に電話が来たのは1年ぶりだろうか。もちろん私には電話は無い。
ちょうど、東京にいたので、私はアユと不動産屋の前で待ち合わせ、不動産屋に入った。
人のよさそうな中年の女性が対応に出てくれた。
「まだまだ、親のすねをかじっているような年頃なのに、夢を追いかけ一人で頑張っていて、しっかりした息子さんですね」と、なにやら息子に感心しているようだった。
16歳で高校を中退し、家を出てから東京での一人暮らし。親から見ればまだまだ子供だが、他人から見ればしっかりした18歳の青年に見えるのだろう。
確かに身長も私より大きくなったような気がする。
親に対しては青年特有の無愛想な態度だが、不動産屋のおばさんとの会話を聞いていると、そこには若いが礼儀正しい青年がいる。
一人で懸命に生きている人間がいる。
早すぎたと感じた巣立は、けっして早すぎることはなかったのだろう。
人にはそれぞれの巣立ちの時がある。
3月に一斉に旅立つ巣立ちは壮観だが、一人静かに旅立つ巣立ちもまた味わいがある。
新しいアパートは駅から2分、今まで住んでいた郊外のアパートとは打って変わった環境だ。アパートの前は狭い路地が走り、飲み屋、ラーメン屋、パキスタン料理の店、麻雀屋が並ぶ古い商店街のはずれだ。なんとなく私の心もわくわくしてくる。
今までの部屋はロフト付きの4畳の洋間だったが、新しい部屋は1Kの6畳間、1間の押入れも付いている。広さ的には2倍ぐらいになった体感がある。築年数はかなり古そうだが、新しいコルク張りの床に白い壁紙は夏の陽光にまぶしく輝いていた。
引越しは7月18日だと言う。
「ちょうどそのころ、東京にいるから手伝ってやろうか。」
「うん」
意外な、返事だった。
親を限りなく避けているアユが「うん」と言うとは思わなかった。
巣立った息子に、まだ親としてしてやれることがある事が少し嬉しかった。
新しいアパートには同じ職場の同僚が2人いるという。一人は隣の部屋で沖縄出身の20歳。専門学校に通っていたのだが退学し、今は別の学校に入るため親の援助を受けずに働いてお金をためているのだという。下の部屋には九州出身の25歳。やがては親の商売を継ぐらしいが、しばらくは東京で一人暮らしをしてみたいとフリーターをしているらしい。
年上の2人の友達。1つのアパートでどんな生活が繰り広げられるのだろう。
青春というのは自分を見つける時代なのだろう。混沌の中にぐいっと腕を突き入れて、何かをつかもうとしている。つかみきれるか、つかみ逃すか。それとも、あっさり、あきらめるか。
あきらめるなよ、アユ。

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