ストップモーション

大勢の人に迎えられ、多くの人に送られるとしても、人間は一人で生まれ、一人で死んでいく。双子ならどうだ?心中ならどうだ?と言われそうだが、生と死は最終的には個人的なものだと言うのが偽らざる気持ちだ。こういうところに引っかかって生きている所が、なんとも青臭いが、ひっかかってくるからしょうがない。
かといって、今の私は家族や、楽しい仕事の中で実に幸せに毎日を過ごしている。何の不安も無いといったらうそになるが、ストレスに満ち溢れているような時代の中で、心はゆったりと落ち着いている。物は人の心を煽るが、自然は心を落ち着かせる。自然の中に住んでいるせいなのか、もともとそうなのかは分からないが、幸いな事に私の家族の心にも自然が満ちている。そんな中で、宮沢賢治が表現したように、私という有機交流電灯が1秒間に60回の明滅を繰り返しながらその明るさは失われずに一つの生命としての流れを全うしている。
そんな私も旅に出ると、個人的な生の中に放り出される。そうすると、いつもは気づかないような、60分の1秒の闇を垣間見る事がある。常に動き連続した世界がストロボライトに照らし出されたかのようにストップモーションで浮かび上がってくる。
首をかしげて道端で眠っている濃紺のお地蔵様。
傍らには大きなバッグ。寒風の中で体を丸くして動かない、登り来る太陽の光を受けて体温の上昇を待つ変温動物のように、彼は冷え切ったからだが温まるのを待っているのだろう、家を失い、仕事を失い、家族を捨てた老人は完全に個人的な生の中に投げ出され、闇の寒さに耐えじっと太陽を待ち受けているのだろう。その背中に太陽は惜しみなくそのぬくもりを届けていた。それが、信号待ちの瞬間、私の目に飛び込んできた一つの命だ。
イスにくつろぐ黄金色の毛並
次の信号待ちの時、綺麗に磨かれた店のガラス越しに、金色の塊が見えた。その塊の上を、はさみとブラシを持った手が小刻みに動いている。店の看板には「犬の床屋さん」と書いてあった。毛のふさふさしたその犬は、イスに固定され、飼い主の注文したスタイルに整形される。喜んでいるのか悲しんでいるのか、その表情までも確認する事はできなかったが、店頭に飾ってある、服を着せられた上品な犬の写真が何故か、哀れに思えた。
立ち止まる老婆
渋滞の列の中に巻き込まれた時の事だった、歩道上にマネキン人形のように立ち止まっている老婆が見えた。両手には、大きなバッグや紙袋を抱え、ジャンパーのお腹は、何が入っているのか膨れ上がっている。
突然、老婆は顔を上げ10歩ほど歩く。そして、又うなだれ息を整え10秒ほど人形のように眠ってしまう。又10歩、又10秒。夕暮れの町並みで家路を急ぐ人たちは、歩道で立ち止まる家を失った老婆に目を留めることも無く過ぎ去っていく。それは、すでに見慣れた光景だったのだろう。「老婆は、あと何歩歩けば、もう歩かなくても済む世界にいけるのだろう。」ふと、そんな考えが頭をよぎった。10歩の生と10秒の死を繰り返しながら、老婆の心に去来するものは何か。私は、心の中で手を合わせていた。

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